純歌を通して文学・音楽・芸術の世界が好きになってくれると嬉しい。
純歌を歌えば描写の凄さが分かってくる。それもまた、純歌の魅力やすごさであると私は思っている。
描写の歌を作る際、現場で歌を作る場合でも目を閉じて、歌を歌う中で空想の映像がうまく流れるように作るとよい(まず目を閉じて、自身でこの『富士山』の歌を歌って考えてみてほしい)。
『富士山』の歌でいえる事は、富士山を小さく歌わないようにする事である。
そして、「富士の心臓へ深く繋がる岩口に」という部分を「富士の心臓と深く繋がる岩口に」としない。
「富士の心臓と」と歌うと、富士の心臓の部分が切り離れてしまって空想の映像がうまく流れない。「富士の心臓と」と言ってしまうと、そこから「深くつながる」という事で映像上の戸惑いが起こる。そうした事をよく考慮して作っていく必要がある。
他には、「富士の火口」と歌うと歌がつまらない(この歌では、生きてこない)ので、工夫をして「富士の火を噴く岩口」や「火の岩口」と考えると、映像の中で「火」の赤色が鮮明になりすぎて、山頂での様子が生きてこない。富士山は火山であるが、火を噴く事は今は無いのでその状態をうまく歌にする。
そこで「富士の心臓へ深く繋がる岩口に」とする事で、山頂には火の赤の印象が残らない事と、「富士の心臓」と歌うことで「岩口」もただの「火口」ではなく人間の口のような感じで「岩口」をイメージ出来る。
「岩場で雲に浮かび乗り」とたんに歌うのではなくて、山頂の高さを伝える為に、飛行機で乗りながら見る「空」という言葉を工夫して使い、「空の岩原で雲に浮かび乗り」とする。そうする事で山頂の高さが映像ではえる。
富士の固有種が歌にはいっているが、「何々等あまた固有種営みて」としない。
「固有種」という言葉自体は生き物ではないので説明的になり、映像的にも、感動も、伝わりにくくなってしまう、描写の歌はそういった点も気を配る必要があるだろう。「固有種」という言葉がかたく、この自然を歌う『富士山』には合わない。自分の考えとは違いこの言葉が浮いてしまい、歌の盛り上がりのトーンを下げてしまう。
純歌は、描写を如何に描き、さらに純歌の歌の中で、描写がどのように流れるのか(流すのか・流れていくのか)?ということが重要なのである。
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